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スキージャンプと僕と原田雅彦選手

バッケンレコードたぶん、世界で一番由緒正しいジャンプ台である大倉山スキージャンプ競技場。

僕はそのジャンプ台を眺める事ができるところで暮らしていました。

世界各国にあるジャンプ台にはそれぞれ最長不倒距離、 いわゆるバッケンレコードって言う物があり、僕の記憶では1978年、ノルウェーの「ナース」という選手が大倉山で118メートルを飛び、「まさかここまで飛ぶ事は無いだろう」というラインを大きく超えてしまい、審判員が巻き尺で飛距離をはかっていた事を覚えています。
その間、テレビに映し出されたナース選手は何とも言えない満足げな顔をしていた事を今でも深く覚えています。

 

子供の頃から僕は冬になるとスキージャンプをみていた。もちろん自分で飛ぶ事は無いんだけれど、子供の頃、公園に出来た雪山で長靴にくっつけるプラスチックで出来た「ミニスキー」と呼ばれるスキーで滑り、その雪山に水を混ぜた雪でジャンプ台を作り、それぞれに飛距離を競い合っていた、そんな子供たちの遊びに浸透する程、札幌の子供たちはスキージャンプは身近な存在でした。
やったところでせいぜい2メートル、その時代にその50倍以上の距離を飛んだナース選手、やっぱり印象的でした。

今はスキーのジャンプというと「V字」と呼ばれる、スキーの先端を大きく開いた飛型が一般的だけど、当時のジャンプは今で言うクラシカルと呼ばれる、きれいに2本のスキーを平行にそろえ、両手も開く事は無く「きをつけ!」と言われるようなぴったりと腿につけた飛型が一般的でした。
そのナース選手もやはりその飛型で118メートルを飛んだ。

日本人選手は札幌オリンピック以降、これといって世界で活躍する事も無かったのですが、そんな中、八木、秋元と言った、世界を舞台にする事ができる選手が頭角を現してきていました。

事実、八木選手は1982年にナースの118メートルを越え、 119メートルという大ジャンプをしました。
当時大倉山ジャンプ競技場は「90メートル」級とよばれ、今で言うところのK点は110メートルだったと記憶しています。

そして、僕が最初に好きになったジャンプ選手、秋元正博選手。
いろいろな出来事があり、秋元選手は世界を舞台にする事が少なかったのですが、最終的にはK点110メートルの大倉山で122.5メートルというバッケンレコードを作りました。
しかも横殴りの雪が降る中、テレビには赤いスーツをまとった秋元選手が微妙にしか確認できないような条件のもと作ったバッケンレコードでした。

大倉山ジャンプ競技場はその後改修を重ね、 今では知る人が少ない、アプローチに出る時に斜めに飛び出し、真下に方向を変えるというアプローチのスタイルから、ワールドカップルールに適合した、ベンチ式のスタートへと姿を変えて、K点120メートルという世界標準へ形を変えていきました。

その世界標準になった大倉山のバッケンレコードでやはり印象に強いのが、僕の大好きな原田雅彦選手の141メートルというバッケンレコードです。
上の写真の上の矢印がK点、そして原田選手がテレマークを決めたのが下の矢印。

スキー場で出くわしたら引いてしまう様な斜度が、「ここから」というところで緩やかになり始めるあたり、今で言うヒルサイズ間近の距離まで飛んだわけです。
※その3年後、145メートルという、次の改修までおそらくもう破られる事はない距離が現在のバッケンレコードなのだが・・・

僕の大好きな原田雅彦選手、5度のオリンピックに出場し、数々のドラマを生み出し、マスコミに叩かれる事も多く、そして与える感動はそれ以上に多く。

スキージャンプペアというコミカルなCG作品が世を席巻しているけれど、おそらく原田選手の活躍なしにはここまで素材としての知名度もなかったと断言できる程、スキージャンプという競技を世に知らしめた原田選手が今シーズンを持って引退する事になりました。

「もしかしたら」と長野オリンピック以降、レギュレーションの変化激しく低迷する日の丸飛行隊の活動をみて毎年感じていたのですが、それが今シーズン訪れる事になっってしまいました。

子供の頃からジャンプをみていると、「ニッカウイスキー」「地崎工業」「雪印乳業」、スポンサーの名前がそのまま所属となって選手名とともにアナウンスされ、強く印象付けられる所なのだが、今となってはその3大ジャンプチームを擁した中でも現存は雪印のみ。その主将を務め、日本中を感動させた原田選手が今季で引退するとニュースでききました。

がんばれ、岡部選手!雪印という会社自体、今はもう「のど元過ぎれば・・・」と思われるかもしれない様な不祥事をしでかしてしまった会社ではあります。

それまで有名だったアイスホッケーのチームを解散し、あわやスキージャンプまで・・・、と思われたが、唯一残ったのがジャンプチームでした。

そう、原田選手はもとより、あの感動の長野で団体を戦った4人の選手のうち、なんと3人が雪印所属という快挙を成し遂げていたのです。
※写真は数年前のワールドカップ、岡部選手のランディング。

原田選手は僕の年齢的に一つ上、世間では「いいおじさん」と言われる年齢なのですが、昔からジャンプをみていた僕にとっては、世間にこの年齢を「いわす」事ができる、いわば代理人だったわけです。

僕ら世代の星、原田選手もついに引退かぁ・・・

世間では選手から指導者へ移り変わる年代なんだなぁ、と今回強く感じざるを得ない状況でした。

僕自身はサラリーマンでしかなく、これと言った栄光は持ち合わせていないけど、「世代交代」って言う意味では現場主義、いわゆる選手から指導する立場への移行を考えなくては行けない年齢になったんだなぁ・・・、と強く感じてしまいました。

自分が造り出した栄光や昔話におごる事なく、いかに次の世代へそれを伝え、昇華し、さらにもっと良い物を残していくのか。

日本の原田、世界の原田と呼ばれた選手が引退を決意したというニュースを受け止め、自分自身これからの生き方、そして残し方。
それを改めて実感してしまいた。

今年、引退を決意した原田選手と同じ37歳を迎える自分にとって、スーパープレイヤーでありつつ良き相談役、そして良いお手本になるために努力しようと本気で考えています。

 改めて言うにはものすごく残念だけど、来年の世界選手権での勇姿をみる事が出来ない事は本当に残念だけど、原田雅彦選手、本当にお疲れ様でした、そして本当にありがとうございました。

スキージャンプという、元は拷問と言われる非現実的でそしてマイナーなスポーツを、新聞の一面を飾るポジションに持ってきてくれた功績、僕は心から認めます。

後はどのような活動をされるのかわかりませんが、先に引退された西方さん、斉藤さんと同様、同じような感動を与え記録ではなく記憶に残る選手を育てる事に注力してください。

そしていみじくも時を同じく引退を表明された宮平選手。
あなたの功績も今の日本、日の丸飛行隊にとってなくてはならない存在でした。

今後、世代交代を余儀なくされる中、岡部選手、葛西選手、そして間が開いてしまっているけれども伊藤選手、山田選手、原田雅彦という先輩に恵まれている次期日の丸を背負った日の丸飛行隊の選手たち。

札幌オリンピックでは金、銀、銅独占、そしてドラマを産んだ長野オリンピック。

今度いつ日本国内でオリンピックが開催されるかはわかりませんが、後任を育て続け、いつの日かまた日本全国を隔たる事なく涙を流す事ができる程に感動を与えてくれる結果を見せる事のできるチームに育ててください。

原田雅彦さん、本当にありがとう!
伊藤杯ではぜひ宮の森、大倉山ともにバッケンレコードを塗り替えて引退撤回!って言う程の大ジャンプを見せてください!

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